
私はよくバースを訪れる。ロンドンから車を走らせ、穏やかな田舎の景色を眺めながらこの街に降り立つと、いつも「帰ってきたな」という気持ちになる。バースには、私が案内するお客さんたちが喜ぶものが一通りそろっている。ローマ浴場、バース寺院、パルトニー橋、ロイヤルクレセント。どこを切り取っても絵になる風景が広がっている。
今日はお客さんが「バース寺院のステンドグラスをじっくり見たい」と言うので、案内することになった。入口で入場料を払うお客さんを見送ると、ふと足元に一ポンドコインが落ちているのが目に入った。
私は「おや、ラッキーかもしれない」と思った。でも、すぐに近くに募金箱があるのに気がついた。おそらく誰かが募金しようとして、うっかり落としたのだろう。それを自分のものにするのは、どうにも座りが悪い気がした。だから、その一ポンドをそっと募金箱に戻した。
たったそれだけのことなのに、少し気持ちが軽くなった。人生には、こういう小さな出来事が意外と大切だったりする。
その後、お客さんと街を歩き、いつものチョコレート屋へ向かった。店のドアを開けると、オーナーが満面の笑顔で迎えてくれた。私はすでに常連の一人として顔を覚えられている。お客さんが日本へのお土産にとチョコレートをいくつか選んでいる間、私はふと店内の片隅に目をやった。
「あれ? 傘なんて売り出したんですね」
棚に並んだ傘には、この店のロゴがしっかりとプリントされている。オーナーはにっこり笑って言った。
「あなたには一本、プレゼントしますよ」
私は一瞬驚いて、それからちょっと照れながら「本当にいいんですか?」と聞き返した。
(この傘をさして歩いたら、それだけでお店の宣伝になるしなあ)
なるほど、お互いにとって悪くない話だ。オーナーの厚意を素直に受け取ることにした。手に取った傘は、しっかりとした作りで、街角のディスカウントショップに並んでいるようなものとはまるで違っていた。値段を見ると、50ポンドとある。なかなかの高級傘だ。
私はこの傘を大事に使おうと思った。雨の日も風の日も、この傘をさしてイギリスの街を歩く。それがきっと、オーナーへのささやかな恩返しになるだろう。
そしてふと考えた。あの一ポンドのことを。
もしかすると、あの時募金箱に入れた一ポンドを神様が見ていて、ご褒美としてこの傘を用意してくれたのかもしれない。もちろん、それはただの偶然に過ぎないのかもしれない。でも、人生というのはそういうふうにできているのではないか、という気もするのだった。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から806日目を迎えた。(リンク⇨805日目の記事)』
最近の記事
おすすめの記事
Comentarios