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親の脛をかじりながら親孝行をする




小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。無職生活655日目を迎えた。(リンク⇨654日目の記事)


親というものは、奇妙な存在だと思う。子供には早く自立してほしいと願う一方で、いつまでもそばにいてほしいとも思う。これらは一見矛盾しているようで、実はそうでもない。心の中で両立してしまうのだ。だからこそ、子供がどのように育ち、どのような道を歩むのかは親にとって永遠の関心事であり、楽しみでもある。


たとえば、ある夫婦の話だ。彼らは一人っ子を持ち、その子供が外国の人と結婚して遠い国へと旅立ってしまった。彼らは寂しさを抱えながらも、50年前の旧友のそばに引っ越し、残された人生を友と共に助け合いながら生きている。これは一つの形だ。彼らは、息子や娘がそばにいない代わりに、友人という新たな絆を見つけたのだ。


また別の話では、旅行好きな夫婦がいる。英語が苦手な彼らは、30代後半の独身の娘に旅費をすべて出して、通訳として一緒に旅をしてもらっている。一見すると、娘は親の脛を齧っているようにも見えるが、実際はその逆だ。親にとって、娘の存在は心強く、安心感を与えてくれる。これもまた、親孝行の一つの形と言えるだろう。


もちろん、中には自分の親の旅行費を全額負担し、親を連れて旅行する親孝行な人もいる。それもまた、一つの家族の絆の表れだ。


こうして考えてみると、家族の絆というものは、実に多様で多面的なものだ。子供が大人になると、親から離れて自分の道を歩む者もいれば、親のそばに残り続ける者もいる。親孝行をする者もいれば、親の支えを受け続ける者もいる。そしてそのすべてが、家族の絆を形作っている。


私自身を振り返ってみると、これまでの人生でさまざまな形で家族と関わってきたように思う。異国の地で生活し、大学時代までは親の脛を齧り、社会人になってからは少しずつ親孝行もしてきた。今では、定期的なビデオ電話が私なりの親孝行の形だと思っている。


そして、今度は自分の子供がどう育つのか、それもまた楽しみだ。遠くへ行ってしまうのか、そばに残るのか、あるいは親孝行をしてくれるのか。それはまだ分からないが、いずれにせよ、家族の絆は簡単には途切れないものだと信じている。


これから先、どんな形であれ、その絆が続いていくことを楽しみにしている。


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