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Xさんは旅好きだった。そしてこれまでの旅の中で、大きな事故や事件に巻き込まれたことはほとんどなかった。強いて言えば、日本の実家から成田空港へ向かう途中にひどい渋滞に巻き込まれたことがある。その日は運悪く成田エクスプレスも止まっていて、チェコ行きの飛行機に間に合わなかった。結局、すべてのチケットを買い直す羽目になった。それ以来、Xさんはできるだけ成田空港を避け、羽田空港を利用するようになった。旅を続けていると、そういうちょっとした「個人的なルール」ができていくものだ。
バルセロナを訪れたときのこと。Xさんは旧市街の石畳を歩いていた。冬の空気が澄んでいて、コートのポケットに手を突っ込みながら気分よく歩いていた。そのとき、不意に誰かが近づいてきた。そして、気がつくとコートにアイスクリームがべっとりとついている。
「大丈夫ですか?」
そう言って、親切そうに声をかけてきた女性がいた。だが、それは親切というより、周到に準備された罠だった。彼女はただの通行人ではなく、スリの一味だったのだ。Xさんがコートの汚れに気を取られている間に、別の人物がバッグの中を探っていた。しかし、たまたま隣にいたXさんの母親が素早く気づいて警戒の声を上げたため、スリたちはすぐにその場を離れた。結局、盗まれたものはなかった。残ったのはコートについたアイスクリームだけだった。
ローマでは、また別の形でスリと遭遇した。地下鉄に乗ると、車両はがらんとしているのに、なぜかXさんの左右にぴったりと寄り添うように5人の子供たちが座った。彼らは移民の子供たちのようだった。Xさんはすぐに察した。これは偶然ではない。
彼らは何か盗めるものがないかと探るように、Xさんの周りをまさぐってくる。しかし、その日は運がよかった。Xさんは特に貴重品を持っておらず、手に持っていた携帯電話もしっかりと握りしめていた。だから、彼らは何も盗めなかった。ただ、その静かな攻防戦の間、Xさんはじっと耐え、何も言わず、黙って座っていた。
Xさんは日本人の女性で、小柄な体型だ。一方、Xさんの夫は日本人だが、背が高く、がっしりしている。奇妙なことに、夫はこれまで一度もスリに遭遇したことがない。
もしかすると、スリたちはターゲットを選ぶときに体型を見ているのかもしれない。小柄な人、目立たない人、抵抗しなさそうな人。そういう人が狙われやすいのだろうか。
旅をしていると、そんなことを考える機会がある。そして、どれだけ注意していても、スリというのはいつも予想外の形で近づいてくる。たとえば、アイスクリームのように、ふいに、思いがけないところから。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から807日目を迎えた。(リンク⇨806日目の記事)』
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