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犬のリードを持ちながら歩いていると、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。最初は気まぐれな霧雨のようだったが、すぐにそれは本格的な夕立へと変わり、私のダウンジャケットの表面に水が染み込んでいくのが分かった。犬は特に気にする様子もなく、ただ前を向いて歩いている。
犬を返しにドアをノックすると「よかったら、お茶でもどう?」
彼女はそう言って私と娘を家に招いてくれた。紅茶の香りが部屋に広がる。窓の外では、雨がリズムを刻むように屋根を叩いていた。
「やっと歯医者の予約が取れたのよ」と彼女は言った。まるで何か特別な勝利を手にしたかのような表情だった。
彼女は1929年生まれだ。長い間歯医者には行っていなかったらしく、奥の歯が2、3本すでになくなっているという。それでも、一番奥の一本はまだしっかりと残っている。「これがなくなったら困るのよね」と彼女は笑った。その笑顔には90年以上の人生を生き抜いた人の、静かな強さがあった。
紅茶を飲みながら、話は自然と昔のことへと移っていった。
1940年から1941年、ロンドン・ブリッツ。
「私はね、その頃ロンドンに住んでいたの。でも空襲が始まって、安全のためにデボンへ避難することになったのよ」
彼女はそう言った。11歳の少女が家族と離れて暮らさなければならなかった。その孤独を想像すると、私の胸にも小さな痛みが広がった。
「幸い、年の離れた兄がいたからね。彼が色々と助けてくれたわ」
しかし、どれだけ助けてくれる兄がいたとしても、家族と離れるというのは寂しいものだ。結局、彼女は空襲の危険があるにも関わらず、ロンドンへ戻ることを選んだ。
「中学の試験には合格したの。でもね、家には制服を買うお金がなかったのよ」
彼女は肩をすくめるように言った。そして、働き始めた。最初はオフィスの雑用。その後、16歳になった頃には戦争が終わり、印刷会社で働くようになった。
80年が経った今、彼女は自分の足でしっかりと歩き、今日も携帯電話の契約を更新してきたと嬉しそうに話す。
彼女は戦争を生き延び、社会の変化を乗り越え、今もなお「生きる」ということに真摯に向き合っている。
雨はまだ降り続いていたが、私はその雨音を心地よく感じていた。。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から803日目を迎えた。(リンク⇨802日目の記事)』
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