知り合いの葬式に参加することになった。しかし、それはいつものように礼服に袖を通し、身を引き締めて出向くものではなかった。近頃ではオンラインで葬儀に「参列」できるという、いささか奇妙な時代がやってきている。便利と言えば便利だが、その便利さが情を薄めてしまっているようにも思える。
この方式はコロナ禍で一般化したものらしい。密を避けるため、家族だけの葬儀が行われ、それに関係者がズーム越しで参加する。だが、果たして「参列」という言葉がこの行為にふさわしいのだろうか。画面を通じて見ている限りでは、それはもっと静的で、どこか現実感を欠いた行為に思える。
モニターの中では、葬儀場に集った人々の様子が映し出される。家族や親友が故人へのメッセージを読み上げ、その言葉は確かに心に響くものの、自分の部屋の椅子に座りながらそれを眺めていると、ふとした瞬間にその響きがどこか遠くへ消えていくような気がする。
画面越しに映る涙を見ても、それがどれほど真実であっても、いつもの自分の部屋という背景がその悲しみを現実のものとして受け止めることを阻む。あるいは、祈りの念を伝えようと手を合わせても、その念がどこか途中で途切れてしまったように感じられるのだ。テレビを眺める感覚に近いのかもしれない。
葬儀の最後には、火葬場での様子も配信される。それは葬儀全体の一部として、世界中どこからでも見ることができる。技術的には素晴らしい進歩だし、遠方に住む者にとっては大いに助かる仕組みだ。だが、便利なだけで済ませてしまっていいのかと、どうしても自分に問いかけざるを得ない。
現地に赴き、その場の空気を吸い、他の参列者と肩を並べて祈る。そういった身体的な行為が持つ意味を、私たちはどれほど大事にしているだろうか。画面越しでは味わえない体験がそこには確かにある。そして、それは故人との最後のつながりを実感するために、私たちが必要とするものではないかと思うのだ。
文:はる『ロンドンでの失職、生き残りを綴ったブログ。小学生と中学生の子供を持つアラフィフサラリーマンが、ロンドンで長年働いた会社からいきなり(当日)の解雇通告を受け、その瞬間からオフィスにも戻れず退職。フリーランスで僅かな食費を稼ぐも、その後の就職活動が難航中。転身開始から737日目を迎えた。(リンク⇨736日目の記事)』
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